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カンボジアは乾期が観光の季節。舗装されてはいても終日砂ぼこりが舞う道を走って着いたアンコール遺跡群は、各国からの旅人でにぎわっていた。観光拠点シェムリアップのホテルを出てバスで約1時間。ヤシやガジュマルなどの疎林に囲まれたバンテアイ・スレイ(女の砦)寺院を前にしてこみあげるものがあった。この地を訪ねたいと願ってから40年。3度目のアンコール遺跡への旅で、やっと実現した。(高橋 徹) |
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バンテアイ・スレイは小さな寺院だが「アンコール芸術の最高傑作」として知られる。神殿の壁龕(へきがん)に刻まれた8体の女神像は「東洋のモナリザ」の名がある。その美に魅せられた若きアンドレ・マルロー(後のフランス文化大臣)が、持ち帰るために切り取ろうとして逮捕されたこともあるという。
1969年に初めてこの地を訪れた時、外務省アジア局編の『カンボジア王国』(1967年刊)という本に「カンボジアで最も美しく格調高い」とあるのを見て、足を延ばそうと試みたが断念せざるを得なかった。治安上の問題で、四輪駆動車で片道1時間以上かかる地への単独見学は不可能だった。間もなく起きたクーデター、ポル・ポト政権の誕生、そして内戦の泥沼化でカンボジアは遠い国になってしまった。 |
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再訪したのは1992年。アンコールワットやトムは見学できたが、バンテアイ・スレイのある地方はまだ、ポル・ポト軍の勢力下だった。ワットやトムも見学場所は制限され、いたるところに「地雷注意」のドクロマークと黄色のテープが張り巡らされていた。
念願かなって訪れることができたバンテアイ・スレイには、観光バスが並び、ヤシの葉葺きのみやげ物屋が軒を連ねていた。「これ1ドル」「10個で千円」と物売りの声は途切れない。「東洋のモナリザ」は、数メートル離れた位置でしか見学できなかったが、この地に立てた喜びは大きかった。
アンコール遺跡群は9世紀から15世紀にかけて造られたクメール王朝の巨大石造建築で、都市やヒンドゥー教と仏教の寺院がほとんど。現在大遺跡として60カ所以上で確認されているが、中にはシェムリアップから東10数キロのロレイのように、今も仏教寺院に属す建物もある。前回この寺院を訪れたさいには「夜はポルポト軍が顔を見せるので早く引き揚げなさい」と、村人に忠告された。
ロレイのすぐ南のプリア・コーでは、地雷で障害を持つ身となった被害者グループが楽器を奏で、歌をうたって募金やCDの販売していた。傍らには「地雷撤去と生きる権利の主張」を様々な言語で記したボード。その人たちが演奏する「チューリップ」のメロディーを複雑な思いで聞いた。 |
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今回の旅ではベトナムのハノイとホーチミンも訪れたが、そこでも同時代史としてのベトナム戦争を学ぶことになった。
ハノイでは米軍の爆撃や枯れ葉剤散布の被害者200人が働く授産施設に立ち寄った。刺繍をするあどけない少女の背は丸まり、仕立てをする女性は足が不自由。職種の多さと技能は驚くほどで、同行の女性たちの購買意欲をそそった。
ホーチミンはサイゴンと呼ばれていたベトナム戦争時以来の再訪だったが、驚かされたのは目的もなく走り回る2人乗りや3人乗りも含むバイク群。「ジャランジャラン」と呼ぶ市民の楽しみだとか。市人口625万人(05年推計)の半数に及ぶというバイクの洪水に辟易しながら、あふれ出る活気を感じた。
ホーチミンから70キロほど西北のクチではゲリラの地下トンネルを見た。抗仏戦争時から1975年のベトナム戦争終結時まで、全長250キロも掘られたという。映像や本で知ってはいたが、トンネルを歩き、当時のゲリラたちの勝利に向けた強い執念を体感した。
日本の若者の間で今、ベトナム人気が高いと聞く。物価の安さからのようだが、こうした場にも関心を持ち、戦争の無意味さ、平和の尊さを追体験して欲しいと思った。 |
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