ニューシニアの情報新聞「フォロンティアエイジ」2月プレミアム号
フロンティアエイジ
第1面 第2面 第3面 第4-5面 第6面 第7面 第8面(広告)
2008年10月プレミアム号第3面 プレミアム号index
 
旅 マイウェイ 西宮市名塩
 
 
 
洪庵を支えた妻の緑濃い里  
   名塩という地名にひかれたのは「緒方洪庵の妻の古里」と聞かされてからだった。実はフロンティアエイジの編集工房の近くに洪庵の「適塾」があり、行き帰りに通るせいでもある。
緒方洪庵・妻八重の像

 下車したJR福知山線(宝塚線)の西宮名塩駅は、二つのトンネルに挟まれた谷間の橋梁駅。両側の山で法師ゼミが鳴いていた。改札口を出ると、歴史愛好家グループ「名塩探史会」の谷野良弘さん(70)と栗林洋二さん(67)が待っていてくれた。「名塩は洪庵の妻の古里」と教えてくれたのは、定年後に移り住んだ旧知の栗林さんだった。

 緒方洪庵(1810〜63)は蘭医で教育者。大阪船場に適塾を開いて大村益次郎、福沢諭吉をはじめ明治維新の逸材を数多く育てたことで知られる。江戸に向かうまでの25年間に塾で学んだのは約千人。八重(1822〜86)は17歳で結婚し、血気盛んな塾生たちの母親代わりとなった。その適塾は大阪市中央区北浜3丁目にあり、史跡・重要文化財に指定され、すぐ西の公園には洪庵の銅像も立つ。
教行寺

 名塩について知っていることといえば、「雁皮(がんぴ)の樹皮を原料に、泥を混ぜてつくる和紙の産地」という程度でしかなかった。その名塩和紙が洪庵と八重を結ぶ赤い糸だったのである。

 名塩で和紙づくりが盛んだったのは、江戸時代中期から明治時代まで。当時は「名塩千軒」といわれるほど賑わい、村人のほとんどがなんらかの形で紙造りの仕事にかかわっていた。八重の実家は名塩和紙の産地問屋。父億川百記は薬袋紙として重宝された名塩紙を船場の問屋に運んでいたことから中天游の蘭学塾で学び、そこで洪庵を知った。

 もらった「名塩探史会」作成の「名塩歴史散歩」という地図入りリーフレット(名塩会館などで入手可)には、13カ所の見学ポイントが記述されていた。車で案内してくれるとのことだが、すべてを訪れることは不可能。そこで八重の実家の億川家跡、名塩和紙学習館、紙漉(す)きをこの地に伝えた東山弥右衛門の墓、かつて職人たちに時を知らせた太鼓楼のある教行寺、人間国宝の名塩紙漉き技術保持者の谷野武信さん(73)宅への案内をお願いした。

 億川家跡はJA兵庫六甲名塩支店になっていた。旧街道に面した支店の一角に、八重の胸像があり、台座に「蘭学の泉 ここに湧き出ず」の文字が刻まれていた。億川家の一室が「名塩蘭学塾」だったことがある。適塾の塾頭も務めた伊藤慎蔵がここで5年間ほど、近郊の若者に蘭学を教えた。伊藤の妻が億川家の親戚の娘で、この地で病気療養した関係からである。旧街道を西に向かって歩くと「蘭学通り」と書いた標識が目に付いた。
紙づくりの祖東山弥右衛門の墓、福知山線の廃線跡

 途中で「ハイキングの隠れ名所なんです」と、福知山線の廃線跡に案内された。複線化のために新線を作り、武庫川右岸を走っていた路線は廃された。所々に枕木は残るが、レールは撤去され、川を見下ろす絶景とトンネルが交互に現れる自然豊かな地道。ただし「鉄橋をわたるな」など、歩行を禁じる標識が何カ所にも。JR西日本がハイキングコースとして開放しているわけではなく、黙認しているだけらしい。

 夕方、谷野武信さん宅を訪ねた。良弘さんの兄である。仕事は休みの日で、人間国宝の技を見学することはできなかったが、過去の作品の写真や現物を手に、名塩和紙の特徴を教えてもらえた。各藩の藩札用に引っぱりだこで「虫がつかず、日焼けせず、しみがつかない」など、他の和紙に比べて保存に優れた名塩紙は、今も文化財の修復には欠かせないと知り、和紙の奥深さを改めて学んだ。

 ◆適塾TEL06・6231・1970。(高橋 徹)
 
ASA(朝日新聞販売店)は元気シニアを応援します。
  株式会社フロンティアエイジ
  〒541-0046 大阪市中央区平野町3丁目1−8−301
  TEL:06−6202−3133 FAX:06−6202−3055 
  e-mail : 
ニューシニアの必読紙「フロンティアエイジ」
Copyright 2005 Frontier-Age All Rights Reserved
フロンティアエイジ 会社案内 所在地 広告案内