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昨年秋、47年ぶりに東ティモールを再訪した。学生だった1961年に今回と同じメンバー3人<注>で訪れた時はポルトガルの植民地、今は21世紀最初の独立国となった国ではあるが、独立を宣言した1975年に侵攻したインドネシアに武力併合され、その後も争乱で国は荒れた。「世界最貧国」の一つという現状からの脱出は容易でなさそうな中で、何か役立ちたいと活動を続ける日本の若者たちの姿が強く印象に残った。 (高橋 徹) |
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インドネシア最大の観光地バリ島から2時間で首都ディリ郊外の空港に着いた。バリ島での1泊を含め、日本を出て1日足らず。10日もかけてたどりついた47年前が思い出された。
ディリの街は道の両側に2階建てや平屋の建物がひしめき、景観が大きく変わっていた。前の訪問時には大きな建物といえば政庁とキリスト教会だけだったが、その政庁は新国家の役所となって2倍以上も横長に増築され、さらに中国建築をしのばせる外務省や建設中の大統領官邸など。建設したのは中国だという。
車が増えて渋滞もある。車の大半は日本車、それも4輪駆動車が多い。郊外に出ると理由がわかった。雨期にはひどい悪路になるからだ。同行の鈴木博之さんは「郊外の道は昔より悪くなった気がする」という。
翌日、ディリを出て島の東部に向かう。「ロスパロス型伝統建築」と呼ばれた高い反り屋根を持つ高床家屋群を求めてである。実は今回の再訪のきっかけは、ピースウインズ・ジャパン(PWJ)のコーヒー栽培=1面参照=をアドバイスする阿部健一さんから、かつて私たちが写したそれらの建物を含む当時の写真提供依頼があったことだ。 |
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「東ティモールの人たちが同胞としてのアイデンティティーを自覚し、自信を持つには歴史や民族の博物館造りが必要。その資料として、ぜひ」ということだった。
当時、ポルトガル政府が作製した観光リーフレットには、それらの建物が道路わきに群をなすコココ村(現ラッサ)の写真が掲載され、私たちもしきりにシャッターを切った。急勾配の高い屋根の棟や軒先で、オーム貝の大きな白い貝殻がきらきらと輝く壮麗な眺めの印象は、今なお鮮明だ。
「行けばすぐわかるはず」。東部の旅に出るまで、そう信じて疑わなかった。だが、ガイド兼通訳として頼んだ東部出身の東ティモール大学生は「そんな建物は知らない」といい、東部を走ったことがあるという運転手も首を横に振る。
マナットでヤシの葉葺きの小さな食堂に寄ると、ロスパロスでボランティアをしているという6人の日本の若者たちに出会ったが、彼らも古い写真を見て「同じタイプの家はあるが、こんな見事なものは・・・」という。 |
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不安を抱えながらバウカウで1泊。翌日は高床群が多かったロスパロスとツツアラを訪ねることにして早朝出発。海岸線にそって走ると棚田が続く。日本が占領していた時代、食料補給路を断たれた兵士たちから、米の栽培を教えられたと聞いたことを思い出した。水の多いところでは3期作も可能らしい。
ポルトガル人が築いたラウテンの要塞を過ぎると道は海岸線を離れて台地に上る。かつてこの付近のあちこちでも高床家屋を見た。車を止め、何人かに写真を見せては首をかしげられながら、やっと旧コココに着いた。
だが、十数戸あったはずの高床家屋はなく、赤茶けたトタンを葺いた土間式家屋が並んでいた。「あれがその跡です」と村人が石組みの基壇跡を指さす。集まった人々が「インドネシア人が焼いた」「インドネシア人が壊した」と口々にいう。
1999年に投票で独立が決まり、国連の暫定統治に移る前、独立反対派があちこちで建物を破壊したと聞いてはいた。前日立ち寄った東ティモール大学でも構内にいくつか消失した建物跡があった。インドネシア政府が建てたものだからという理由と聞いたが、その破壊が地方の伝統的な家屋にまで及んでいるとは思いもしていなかった。
基壇の奥の家に、フランシスカ・ロベスさん(77)という女性がいた。焼かれた高床の一つは彼女の家だった。「あなたたちが来た時のことを覚えている」という。「感激の対面」のはずなのだが、こちらは記憶にない。おそらく村の女性たちは、物陰から観察していたのだろう。ロスパロス近くにはまだ残っていると教わり、村を後にした。 |
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途中のルアライという集落で、かつてのコココのものより小さいが、2棟の高床建築が建っていた。ポルトガルのロータリークラブが資金を出し2001年に復元したという案内板があった。
昼前にロスパロス着。町のあちこちに、高床家屋をデザインしたモニュメントがある。人々がこの建物を誇りにしていることがよく分かった。ただし、町の中心部で見かけたのは1棟だけ。それは焼けて屋根組みだけが残る建物の横に、ぽつんと立っていた。首都ディリでもデザイン化した装飾を空港で見かけたし、市街地で外見を似せたモニュメント風の建物も見かけた。国をあげてシンボル的なものとして扱おうとしているのだろう。
注文してから出てくるまで80分、のんびりした食堂で昼食を終え、この国の東端近くにあるツツアラに向かう。途中のイララファイで4棟の高床建築を見かけたが、ツツアラ付近はすべて土間式家屋に変わっていた。
バウカウに引き返して1泊し、ディリに戻った翌日、かつては円形や方形、高床や土間式などバラエティーのある建物が見られた中央山岳地帯のレテフォホを訪ねたが、そこでもトタン葺き家屋が多くなっていた。どの地域でもトタン屋根は赤茶色にさび「昔より貧しくなった」という印象を受けた。
47年前の写真に誘われた旅は、厳しい歴史と現実を改めて知り、人々の幸せを祈る旅になった。 |
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| 根づくまで続けねば・・・ |
コーヒー栽培指導のNGO |
| 資金不安乗り越え |
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「東ティモールのコーヒーには国運がかかっている」と、同国で活動する日本人たちは口をそろえる。農産物や海産物は国内消費をまかなうだけ。他に産業らしいもののない中で、コーヒーが輸出品として注目されているからだ。その産地をNGOピースウインズ・ジャパン(PWJ)の金丸智昭さんの案内で訪れた。
PWJが指導する農家のあるレテフォホの中心までは、首都ディリから車で約3時間。距離は80キロほどだが、半分以上は悪路の山道続き。「昔より道が悪くなった」というのが、47年ぶりに再訪した3人の共通の感想。 ディリに本拠を置く金丸さんらは、毎週のようにこの道を往復している。頭の下がる思いがした。
走り始めて2時間ほどすると、両側の斜面にコーヒーの木が見えた。ブラジルなどの整然としたコーヒー園のイメージはここにはない。ネムノキの仲間やモクマオウなどの大木の陰で、他の木々と交じって思い思いに枝を伸ばしている。
「果実を摘み取る前に下草を刈ることがあるが、それ以外には手をかけない」そうで、農耕の歴史の初期段階「半栽培」の言葉を思い出した。
品質のいい東ティモールコーヒーの産地は標高800<メートル以上の高地に限られるようだ。収穫期は5〜9月で、レテフォホ中心部では6、7月に終わるという。
作業は(1)摘み取り(2)果実の選別(未熟な実が交ざると味が落ちる)(3)器具を使った果肉はがし(収穫後8時間以内に処理しないと腐敗して豆に臭いがつく)(4)豆皮を取りやすくするため水につけて発酵(5)ぬめりを取るための洗浄(6)天日乾燥・・・の順で行われる。
もともとこの地方では果実のまま売り渡していたが、豆にしておくと保存が可能で、出荷時期も選べることが、次第に理解され始めたそうだ。悩みのタネは、金丸さんらに代わる現地スタッフがなかなか育たないことだという。
現在の事業は国際協力機構(JICA)の資金援助を受けて続けてきたが、今年3月までと年数が限られているという。「規模を縮小してでも、組合が独り立ちできるまで事業を続けたい」。金丸さんの言葉に気負いはなかった。 |
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やっと勝ち取った独立だから、国民はきっと意気軒高だろうと期待していたが、そうでもなかった。いろんな事情があるらしかった。
例えば、ポルトガル語と現地語を代表するテトゥン語が公用語になったが、教員たちが共通語として使うのはインドネシア語が中心。教育ひとつとっても難しい問題があると聞いた。
使われる言語が20を超える多様な民族からなる国だけに、東ティモール国民としてのアイデンティティーがまだ出来ていない。それが新国家としての飛躍を難しくしているように思えた。
47年前に比べ、景観が大きく変わったのは首都ディリだけ。その他の地方は服装が良くなっていたもののあまり変わりない。水汲みに使うかめがポリ容器になり、素足がゴムぞうりになっていたのが印象的だった。
収奪の植民地支配が終わった後、武力侵攻とその後の独立に向けた内乱が続いて無理もないと思う。だが、人々の優しさや人懐っこさは、当時と変わらない。時間はかかるにしても、いい国になると信じたい。
そんな期待をこめ、国づくりに役立とうと、日本の若者たちがボランティアしている姿に打たれた。とりわけ、女性たちのがんばりに驚いた。
コーヒーづくりだけでなく、野菜づくり、織物づくり、食生活改善、保険衛生指導、教育。サソリに3度刺されながら10年滞在し、漁船づくりを指導している女性もいた。日本の若者たちから教えられることの多い旅だった。 |
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