| |
|
|
| |
|
| |
佐賀県東松浦半島の先端部にある呼子港から、連絡船で加唐島(かからしま)に向かった。百済の武寧王(462〜523)の生誕地として近年、日韓で話題となっている玄界灘に浮かぶ小さな島である。
朝からみぞれが横なぐりに吹きつける寒い日だった。昼近くになってもまだ、玄界灘を渡る風は音を立てている。波頭を割って船首を北に向けると、遠くに壱岐がうっすらと見えた。「なるほど、加唐島は壱岐と九州本土との航路わきなんだ」。隣にいた仲間の一人がつぶやいた。出港して約20分。島に近づくにつれ、島影に入ったせいか、波は収まった。
港の上に2階建ての学校があり、付近に民家も点在する。山の斜面を切り開いて造成された狭い敷地の上で屋根を寄せ合っている。島の周囲はすとんと海に落ち、切り立つ崖も見える。地図を見ても海に接した部分に平地は見あたらない。 |
| |
|
| |
下船したのは私たちの一行16人だけ。10年ほど前から年に2、3度、観光地化されていない古代史遺産を訪れている仲間である。
埠頭に下りると日本語とハングルで書かれた「百済第二十五代王 武寧王生誕伝承の地」の大きな立て看板が目に付いた。日韓の有志が協力し、2006年に記念碑を建立したといういきさつも記されている。船便の荷物を受け取りにきた中年の女性に生誕地の所在を聞くと「ああ、オビヤ浦。この道を行くと10分ほど」と教えてくれた。
道は港から一気に上り坂になる。そのかかり口に「百済武寧王生誕地」の記念碑があった。韓国・公州市で発見された武寧王陵のアーチ構造と、墓壁をもとにデザインされたと説明されている。
坂道を数分上ると、左側に枝分かれした新しい道ができていた。道標があるわけではなかったが、オビヤ浦への道に間違いないと勝手に判断して進む。道は西海岸の急な斜面中腹の藪地を縫って北に向かう。
その選択は間違っていなかった。歩きはじめて10数分。「つきましたよ」。先に歩いていた仲間の声が、10数メートル下の海岸から聞こえた。ここは島の中で海辺に降りられる数少ない場所である。
武寧王が産声をあげたと伝わるのは、波の浸食でうがたれた大きな岩陰洞窟だった。しめ縄が張られ「百済武寧王生誕の地」と書かれたボードがあり、賽銭箱も置かれている。
「日本書紀」の雄略天皇5年の条に次のような記述がある。「武寧王の母は、夫の昆支(こにき)と共に大和に向かう途中で産気づき、筑紫の各羅嶋で男児を出産した。そこで男児は嶋(斯麻=しま)君と名づけられ、成長して武寧王となった。母はもともと21代蓋鹵王(こうろおう)の妻の一人。王の弟の昆支が旅立ちの前に譲り受けたが、その時すでに蓋鹵王の子どもを身ごもっていた」。
|
| |
ところが、韓国の史書『三国史記』には、こうした出産のいきさつの記述はなく、韓国の学会の事情もあって『日本書紀』のこの記述は無視されてきた。一方、日本でも各羅=加唐島説が有力になったのは、戦後もかなりたってからのことであり、武寧王の生誕地問題に関心を示す研究者も多くはなかった。
状況が大きく変わり始めたのは1971年の武寧王陵の発見。その墓誌に記された没年号や年齢が、『日本書紀』と一致することから、韓国側で記述の見直しがはじまった。1988年以後、韓国の研究者たちが再三島を訪れ、双方の交流が深まり、生誕記念碑建立に向けての取り組みが芽生えていったのである。
武寧王は百済中興の祖といわれる。ほぼ同じ時期、日本で玉座についていたのは、謎の大王といわれる継体天皇(在位507〜531年)である。そして『日本書紀』によると、二人の在位中に大和が百済に「任那」4県を割譲し、また百済が2度も大和に五経博士を送るなど、密接な交流があった。二人が直接会ったことはないのだが、お互いをかなり意識した「朋友」の関係にあったことは間違いないようだ。
この日、島を訪れた仲間たちは、北陸から出て「新王朝」をつくったといわれる継体天皇に関心を持つ人が多く、それもあってはるばるとやってきたのだった。
生誕地の岩陰近くに「武寧王の産湯」跡といわれる水だまりがある。それに手を浸した女性が「温泉みたいですよ」という。「この岩陰ならゆっくりお産できそうです」。稀有の出来事があった古代史の舞台。「寒いけど、来て良かったね」と、しみじみ感じる旅になった。 (高橋 徹) |
|
|
|
| |
|
|
|
|