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| 兵庫県たつの市龍野町出身の詩人、三木露風(ろふう)が童謡「赤とんぼ」を初めて発表したのは、児童教育雑誌「樫の實」の1921(大正10)年8月号だった。今年はちょうど90周年にあたる。親友の山田耕筰によって曲がつけられた歌は、今も日本人の心を強くひきつけるが、詩には龍野で育った幼少期の「実感」が込められていた。その「赤とんぼ」の原風景をたどれれば、と「播磨の小京都」と呼ばれる龍野の町を歩いた。 (安村俊文) |
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JR姫新線本竜野駅を降りて西へ。揖保川にかかる龍野橋を渡り、白壁や土塀が残る町並みを通って龍野公園に着くと、入り口に露風の像と「赤とんぼ」歌詩碑がある。
「夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か/山の畑の 桑の實を 小籠に摘んだは まぼろしか/十五で姐やは 嫁に行き お里のたよりも 絶えはてた/夕焼小焼の 赤とんぼ とまっているよ 竿の先」
旧龍野市の求めに応じた墨書自筆を写した銅板だが、露風は碑完成(1965年)の5カ月前に75年の生涯を閉じた。
詩は北海道・トラピスト修道院講師時代の作で「樫の實」での初出の題は「赤蜻蛉」。実は第一節が「夕焼小焼の、山の空、負はれて見たのは、まぼろしか。」で、次節の結びが「まぼろしか」でなく「いつの日か」になっている。その後、推敲を重ねて童謡集「真珠島」(21年12月刊行)、「小鳥の友」(26年11月刊行)に所収、耕筰は贈られた「小鳥の友」の詩に曲をつけた。
露風は54(昭和29)年12月、埼玉県立熊谷高校で「赤とんぼ」について「此の私の作は、実感でありまして私のことであります」(講演原稿)と語っている。また59年には「家で頼んだ子守娘がいた。その娘が、私を負うていた。西の山の上に、夕焼していた。草の廣場に赤とんぼが飛んでいた。それを負われてゐる私は見た」(森林商報69号)と寄稿している。
5歳の時、両親が離別して母は鳥取の実家に帰り、露風は祖父の家で育てられた。そんな幼少期の「実感」とはどんなものだったのか。歌碑から約500メートル東の龍野城近くに、露風や同じ龍野出身の哲学者・三木清、詩人・内海信之、歌人・矢野勘治の資料、文献を所蔵する資料館「霞城(かじょう)館」がある。同館発行の図録「三木露風」は、先の二つの述懐から「この童謡の根底に流れている一脈の寂しさは、人一倍感じやすい露風が、満五歳のときに母と別れて以来味わった孤独感であると思われる」と記す。
生家は霞城館近くにあり、その西約300メートルに祖父宅跡がある。家の持ち主は変わったが、生家は昨年末に市が買い取った。裏手の北から西にかけて山々が連なり、緑豊かな小道が続く。散歩中の近くの男性(50)に聞くと「景色は昔と変わっていないのでは・・・。秋には赤とんぼも見ますよ」。 |
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醤油蔵などがある家並みを歩くと露風が通ったという書店があった。1901(明治34)年からの「伏見屋商店」。木造で吹き抜けの2階部分が回廊という珍しい造り。店を切り盛りする竹内さち子さん(61)は以前、古老から本好きの露風が回廊の本棚の前で「ここは僕の棚や」といっていたという話を聞いた。今、店に「露風の本棚」を設けて関連本を並べる。
町割りは「江戸前期のままに残っています」と市立龍野歴史文化資料館の学芸員市村高規さんはいう。その城下町を舞台に76年、山田洋次監督の「男はつらいよ」第17作「寅次郎夕焼け小焼け」のロケがあった。マドンナの芸者役は太地喜和子。「赤とんぼ」のメロディーが流れる夕焼けのシーンもあった。「ロケ時に渡された脚本は別のタイトルでした」と、ロケに協力し出演もした龍野在住の元俳優榮藤孝さん(66)が明かす。ロケ終了後に監督から「タイトル変えたよ」と電話があり、それが「寅次郎夕焼け小焼け」。「夕焼けの印象がよほど強かったのでしょう」という。
夕方5時、山上の拡声機から「赤とんぼ」のメロディーが流れ、公園で幼子を遊ばせていた母親たちが帰り支度を始めた。それから1時間余、西の山が薄い朱色で縁どられ、町は静かに暮れていく。どこか懐かしさ漂う光景。「赤とんぼ」の原風景に出あえた気がした。
◆メモ JR姫路駅で乗り換え姫新線本竜野駅下車。車なら山陽自動車道龍野ICから約10分。問い合わせは市商工観光課(TEL0791・64・3156)▽霞城館(TEL63・2900、月曜休館)▽市立龍野歴史文化資料館(TEL63・0907、同)▽伏見屋商店(TEL62・0091、日曜休み)。 |
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