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美(ちゅ)ら国 沖縄 (下) 2005年6月号
 
 
23万余の名に平和誓う 献身の知事を語り継ぐ人も
 
   沖縄本島南端の摩文仁の丘(糸満市)は太平洋戦争末期の沖縄戦(1945年)最後の激戦地。多くの住民、軍人がここで命を落とした。海に切り立つ断崖の上の沖縄県平和祈念公園の「平和の礎(いしじ)」には、確認された沖縄戦の戦没者23万9092人(昨年6月現在)の名前が刻まれ、戦後60年の今年のなお、その名前は増え続ける。
平和祈念公園刻銘石碑


 公園は広さ約33ヘクタール。戦没者の慰霊、戦争の教訓継承を目的に整備され、「礎」は沖縄戦終結50周年の1995年6月にできた。黒御影石の刻銘石碑116基が「平和の火」を要とする形で海に向かって扇形に並ぶ。戦没者名は軍人、民間人を問わず、外国人も含めて記されている。

 神戸市に住む「兵庫沖縄友愛運動県民友の会」事務局長・長谷川充弘さん(62)の沖縄への旅は、33年前の沖縄と兵庫の友愛提携をきっかけに始まり、100回を超えた。中学、高校のスポーツ記録を扱う新聞を発行する長谷川さんは、訪問先の学校などで話すことがある。「終戦時の沖縄県知事は神戸の人。県民を救うために命を賭けたことを忘れないでほしい」

 島田叡知事(1901〜1945)のことだ。島田さんは神戸二中(現県立兵庫高校)から第三高等学校、東京帝大へ進んで旧内務省に入省。警察官を経て大阪府内務部長だった1945年(昭和20年)初め、沖縄県知事の辞令を受けた。沖縄は前年10月10日の那覇大空襲以来、圧倒的なアメリカ軍の攻撃にさらされ、前任者が「出張」で島を離れたまま帰任しない中で後任となった。「命は惜しいが、断ればほかの誰かが行くことになる」と、単身で赴任した。

 着任は1月30日。「県庁は爆撃で破壊され、民家数ヵ所に間借りしていた」と、当時県衛生課の職員だった那覇市在住の新垣進松さん(88)。島田知事は着任早々から村々を回って住民を励まし、疎開をすすめて10万人以上を本島北部や本土へ送り出した。首里城の地下にあった日本軍司令部が本島南部への移動を決めた際は、猛反対したという。「戦線を広げて県民の犠牲を増やすだけだ」と。

 やがて、日本軍は南部へ移動。県庁もガマ(岩穴)を転々とし、90日間にわたる沖縄戦の終結までに十数回も場所を移した。新垣さんは「飛ぶ(職場離脱する)者は追わない」と職員に話す島田さんの声を何度か聞いた。

 島田さんが「最後の県庁舎」だった摩文仁のガマを出たのは6月22日。その翌日、日本軍の組織的な抵抗は終わった。「崖で島田さんを見た。短銃を握って倒れていた」という話はあったが、消息は確認されなかった。「住民にも職員にも思いやりの深い人だった」と振り返る新垣さん。自身は、日本軍将校とともに昼はガマにこもり、夜は食料を求めて周辺を歩いた。敗戦を知ったのは終戦の3ヵ月後だった。
 太平洋戦争で国土唯一の地上戦になった沖縄戦の犠牲者は20数万人にのぼる。その6割超が沖縄県民で、しかも約10万人は一般住民だ。

 沖縄県内には学徒出陣者や各府県出身者らの慰霊塔が計120基もある。平和祈念公園の慰霊塔群の中にある「島守の塔」が島田さんら県職員の慰霊塔だ。主に沖縄県民の寄金で建立され、新垣さんが会長の「島守の会」が管理している。「沖縄忌」の6月23日に塔の前で開かれる慰霊祭に、長谷川さんは今年も参加する。 (金澤 清弘
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