|
|
|
|
|
|
 |
2005年 |
|
|
|
|
|
| |
| 樟葉宮伝承地 |
 |
|
|
|
| |
| 枚方にあった5年の都 |
継体天皇即位の地 2年後に迎える1500年 |
|
|
| |
遺跡遺構を核にした「町おこし村おこし」が盛んだ。先祖の暮らしを身近に感じ、住民を元気づける歴史遺産だからだろう。時間に余裕が出来た今、改めて学び直したくて、気ままに各地の史跡を訪ね歩くことにした。
最初に訪ねたのは枚方市の樟葉地域にある交野天神社。6世紀に継体天皇が置いた樟葉宮の跡と伝承される神社だ。最近、地元で「地域おこし」のため、樟葉宮を中心とする歴史を学ぼう、という動きが高まっていると聞いたのが動機だった。
継体天皇の即位前の名は男大迹(おおど)王。『日本書紀』は、武烈天皇が亡くなった後、大和王権の重臣たちに請われて越前(『古事記』では近江)からやって来て、ここで即位したと記す。507年のことである。
京阪樟葉駅前から出るバスに乗り、京都府八幡市の長沢バス停で下車した。道の西側に並ぶ建物の間から、高い樹木の茂りが見えた。交野天神社の森である。周囲には民家が建て込む。「京都、大阪の境界はどこだろう」などと考えながら数分歩くうち、森の南側に出ると、石の鳥居のわきに「樟葉宮舊蹟」と刻まれた石碑が立っていた。
木立の参道を数十メートル進むと、朱色も鮮やかな一間社流れ造りの建物が目に入る。光仁天皇を主祭神の本殿である。応永9年(1402年)の建立で、市内最古の建物だが、修復が終わった直後だけに、真新しい印象を受けた。東隣にある同じ様式の小ぶりの建物は末社の八幡神社。いずれも国の重要文化財である。森の中をさらに数十メートル行くと、小さな丘の上に末社の貴船神社があり、石段の上り口の石碑に「此附近 継體天皇楠葉宮址」と刻まれていた。
継体天皇は、天皇家の血筋を引くとはいえ、天皇につながるのは5代も前(6代説もある)の応神天皇。そこで、無理やり系図をつくったと見る研究者が多い。つまり、継体天皇の即位で王朝が交代したと考えるのである。樟葉宮は、新王朝誕生の記念碑的な聖地ともいえる。
樟葉宮が注目されるのは、2年後に継体天皇即位から1500年を迎えることと無関係ではない。淀川対岸にある今城塚古墳(高槻市)の発掘調査が進み、ここを本陵とする学者が多くなるなど、継体天皇をめぐる話題は豊富。この機会に樟葉宮を生かした「まちづくり」を目指そうという思いが、伝わってくる。
樟葉宮が、本当に交野天神社付近にあったのかどうか、まだ確証は得られていない。しかし、樟葉地域のどこかで継体天皇が即位したことは疑いないらしい。天皇は5年ほどこの地に留まり、今の京田辺や乙訓などを転々として、大和に入ったのは即位から20年後のことになる。この間に様々な政治的駆け引きが展開されたのだろう。
当時の宮殿の姿は、伊勢神宮のような建物を思い描けばいい。周囲には、天皇に仕える人々の家並みもあったはずだ。その時期、樟葉はまさに日本の都だった。どんな建物がどのように並んでいたのか。そんなことを考えていると、古代が身近に感じられた。 (高橋 徹 元朝日新聞編集委員) |
|
|
|
|
|
| |
|
|
|
|
|
|
|
 |
| |
株式会社フロンティアエイジ |
| |
〒541-0046 大阪市中央区平野町3丁目1−8−501 |
| |
TEL:06−6202−3133 FAX:06−6202−3055 |
| |
e-mail :  |
|
| ニューシニアの必読紙「フロンティアエイジ」 |
| Copyright 2005 Frontier-Age All Rights Reserved |
|