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| 播州・坂越 |
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赤穂市東部の坂越(さこし)は、塩の積み出しを中心に近世まで栄えた港町であった。JR坂越駅で下車し、往時の面影を残す町並みを経て浜辺に出る。坂越湾は瀬戸内海に向けて広がっていた。浜辺と集落の間には、まだ新しい防潮堤、幼い松の並木、それに駐車できる広い空間があって、昔の港をしのぶよすがはない。いささか「裏切られた」思いのままに、近くの大避神社(おおさけ)に向かった。
坂越の名は知っていたが、訪ねるのは初めて。知人から「雅楽発祥の地は坂越?」という質問に旅心を誘われた。そう思わせる「記念碑」があると聞いたのだという。市教育員会に問い合わせても、そういうものは存在しない。ただ「秦河勝を祭る大避神社があります。関係ありますかね」の一言が気になった。
河勝は推古天皇に仕えて聖徳太子のブレーンとなり、大化改新まで活躍した渡来人。京都・広隆寺を創建したと伝わり、同寺の旧境内には大避と同じ読みの大酒神社がある。
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| 佐越湾を見おろすように高台にたつ大避神社 |
旧坂越浦会所の前を東に向かうと、大避神社の標識が目についた。浦会所は赤穂藩主の茶屋としても使われたといい、坂越歴史の町並みのアクセントとなる建物である。
大避神社は石段を上った高台にあった。寺の仁王門そっくりの門には、武人像と仁王像が背中合わせに合計4体置かれている。左手に社務所があり、声をかけたが応答はない。戸口に由緒書きが置かれていた。それによると、門の名は随神門。武人像は左右大臣とあった。神仏習合時代の名残りのようだ。
皇極天皇3年(644年)、蘇我入鹿の迫害を避けてこの浦に到着した秦河勝は、赤穂市を流れる千草川流域の開拓を行い、村人の尊崇を集めたという。やがてこの地で亡くなった時、村人が祠を建てたのが神社の起源。墓とされるものは、湾内に浮かぶ生島(いきしま)にある。
由緒書にも雅楽のことは記されていない。ともかくお参りをと、本殿に向かう。拝殿前の絵馬堂に掲げられた多くの絵馬の中に2枚の舞楽の絵。知人が言っていたのは、これだったのだ。
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| 絵馬堂に掲げられた秦河勝後裔奉納の舞楽の絵 |
奉納者は「元宮内庁式部職楽師」の岡、東儀両家の人。岡家の額には「楽祖秦河勝後裔」と書かれていた。この神社の「坂越の船祭り」は国の無形民俗文化財。お旅所のある生島との間を神輿船が楽人船などを引き連れて渡御するのだが、98年の1350年祭には、いまジャンルを超えて活躍する東儀秀樹さんが自ら申し出て雅楽を奉納している。というわけで、坂越は雅楽発祥の地ではないものの、河勝が祭られていることで古くから雅楽諸家との縁が深く、絵馬が奉納されたのだと判明した。
そのお旅所をはじめとする建物は、昨年の台風16号でひどい被害を受けたらしく、寄付願いの張り紙があった。あの防潮堤を、たとえ一瞬でも「無粋な」と思った旅人の無責任さを恥じた。この地域にとって高潮は、いにしえからの悩みであったのだ。 (高橋 徹 元朝日新聞編集委員) |
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