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淡路島をゆっくり旅したいという積年の思いを果たすため、車で明石海峡大橋を渡った。2日をかけ、卑弥呼時代の戦いに備えた村跡、悲劇の皇子ゆかりの古跡、国生み神話の舞台など歴史・伝承の地を中心に巡ったが、見残した場所も多く、興味の尽きない島だと実感した。間もなく水仙の季節も始まる。(高橋 徹) |
| 神話の舞台は神々しい漂い |
卑弥呼時代の武器製造所も |
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まず向かったのは、淡路市小倉の北淡震災記念公園セミナーハウス。開催中(今月5日まで)の「弥生の鍛冶工房 五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡への道」展を見たかった。兵庫県立考古博物館と同市教委の調査で明らかになった、卑弥呼の時代を含む弥生後期の「鍛冶屋村」発掘の成果を示す展示会である。
その現地を見るため、同市黒谷五斗長の播磨灘を見下ろす津名丘陵に上る。標高約200メートルほどの段々畑の一画に、草ぶきの竪穴式建物2棟と、木組みだけの建物1棟が立っていた。他にも建設中の建物があり、遺跡地の整備復元事業が始まっていた。
この遺跡に関心を持ったのは、邪馬台国所在地問題に関係するからだ。出土した23棟のうち12棟で、鉄やじりのような小型の武器を製作していたらしい。鉄器は銅器より武器として優れているが、九州に出土が多く、近畿では少ない。邪馬台国畿内説の泣きどころを解消しそうな発見と期待されている。
桓武天皇が、同母弟の早良親王をまつった勅願所、常隆寺は津名丘陵の尾根近くにあった。親王は長岡京造宮長官暗殺事件にからみ、首謀者の罪を着せられた非運の主。淡路の配流される途中、抗議のハンガーストライキをして死亡。遺体は淡路島に運ばれて埋葬されたが、後に奈良の都近くの立派な陵墓に改葬された。桓武天皇がたたりを畏怖したからである。
「天王の森」といわれるその埋葬地は、同寺から北東に山をくだった淡路市仁井にあった。古墳のように盛り上がった小山で西側に鳥居が立つ。石段を上ると小さな社殿が鎮座していたが荒れており、文字が消えかかった解説板の「親王の(墓の)伝承地として地元の人は今に手厚く祭祀を行っている」という記述にはそぐわぬ姿だった。
遅い昼食後、同市多賀の伊弉諾神宮に向かう。祭神はイザナギ・イザナミの神。『古事記』『日本書紀』に、国生みした神と記されている。夫婦神が混沌とした地を矛でかき回し、矛を引きあげると、滴り落ちた塩水が積もって、オノコロ島なった。そこに降りた2神は「天の御柱」を巡って目合(まぐわい)し国生みを開始、まず生まれたのが淡路島(洲)だとある。また『日本書紀』では、イザナギはここで「幽宮(かくりのみや)を構えた」、つまり余生を過ごしたとも記されている。 2012年1月は日本最古の歴史書『古事記』が撰録されてから1300年。島根、奈良、宮崎では記念事業の計画が進んでいる。そのこともまた、今回の旅の動機だった。甲子園球場を上回る5万平方メートルの境内は、神話のふるさとの要のお宮としての風格を備えていた。
そこから南下し、全国に7、8カ所あるといわれるオノコロ島伝承地の一つ、南あわじ市榎列下幡多の「自凝島(おのころじま)神社」に参詣した。1982年に建立された高さ21メートル余の朱塗りの大鳥居は圧巻だった。
さらに南にある淳仁天皇の御陵へ。恵美押勝の乱の責任を問われ、淡路に流されて生涯を終えた奈良時代の天皇である。早良親王の流刑地が淡路になったのも、この先例に倣ったものらしい。
初冬の日はかなり低くなっていた。予約しておいた宿へ急ぐ。鳴門海峡の彼方に沈む夕日の絶景で有名な休暇村南淡路である。幸い天気に恵まれ、海峡の彼方の四国の山々に落ちてゆく夕日を眺めることができた。それは評判通りの光景だった。その夜は、「淡路島3年とらふぐ」を使った「ふぐ尽くし」を堪能した。
翌朝は朝食もそこそこに休暇村を出て南端の南あわじ市灘土生へ。目指すのは同様にオノコロ島伝承のある沼島。連絡船の出発までに近くの黒岩水仙郷に寄ってみたが、12月下旬にはシーズンを迎えるとのことだった。
沼島までは連絡船でわずか10分。諸説あるオノコロ島伝説の中でも「こここそが、オノコロ島」と地元の人が胸を張って語り伝えてきたのが東海岸の「上立神岩」の存在。「天の御柱」の名で呼ばれる。絶壁の岸近くにそそり立つ高さ30メートルの立錐形。その巨大な造形は銅矛の穂先にも似て、神々しいものを感じた。ここの自凝神社には近年建立のイザナギ・イザナミの夫婦神像もあった。 |
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◇休暇村南淡路の「ふぐ尽くし=写真」プラン1泊2食16800円(消費税込み・入湯税別)が、3月14日までの平日限定で「フロンティアエイジ読者」と告げて2人以上で予約した場合1000円引きになる。(TEL0799・52・0291、FAX0799・52・3651)。 |
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